50周年に寄せて-私の時代の商工会議所とフランス


1981年春から87年半ばまでの間、事務局長を務めさせて頂きました小瀬 武です。会議所創設50周年を迎え、寄稿をとのご依頼を承り、拙文を草する次第です。
着任した当初は、在仏日本商業会議所でしたが、その後、進出企業が徐々に増え、在任中に商工会議所へと名称を改めました。
当時の会議所とフランス。もう遠い話だけに、思い出話として、お読み流し下さい。
着任早々にミッテラン政権が誕生しました。社会党政権への移行、すなわち改革への期待から、多くのパリ市民たちが街に繰り出すといった、歓呼の一夜が明けた翌朝には、会頭を始め理事の方々が、日本企業、あるいは日仏貿易関係に及ぼす影響などについて、出来る限りの手段を講じ、現地での情報収集に努めていました。現地日本企業も国有化されるのではないか、といった憶測まで飛び交った御時勢でした。
貿易摩擦といえば、日本製ビデオデッキの輸入を阻止するために、これを「ポワティエの戦い」に例えたり、エディット・クレッソン首相が、「日本人はウサギ小屋に住む、黄色いアリ」と発言したことなど、残念な出来事がありました。当時、訪仏した経団連のミッション団長が、「けしからん、海上自衛隊をマルセイユに派遣し艦砲射撃すべきだ」と語り、一座が爆笑したことが思い出されます。
会議所は本来、会員の皆様方に便宜を図ることが使命です。例会などでの企業間の懇親、実務情報提供セミナー、JETROと日本の新聞社、当時の東京銀行のご助力を得た政治経済金融月報発行を通じ、微力ながらも事務局は便宜供与に務めさせて頂きましたが、理事会は日仏間の親睦も欠かせないものと位置づけ、正会員、賛助会員の交流を兼ねた午餐会を開き、当時、産業相であったローラン・ファビウス氏、アラン・マドラン氏、あるいは、実業界の異端児として破竹の勢いで登場したベルナール・タピ氏などとの意見交換の場も設けました。
事務局にタイプライターとテレックスの音だけが響き、速達といえばプヌマティックだった時代からワープロを導入した頃までのことを振り返ってみると、隔世の感があります。
50周年を迎えた会議所の御発展と、会員企業各社、各位の御活躍を切にお祈り申し上げる次第です。

小瀬 武

 

 

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