watanabe

 

 

 

1982年4月15日ミッテラン大統領はフランスの元首として、日仏の国交開始以来はじめて日本を公式に訪問した。天皇陛下との謁見をはじめ朝野の要人と会見、更に経団連の午餐会に出席して、日本側にパートナーとして協力関係の構築を呼びかけた。私は同年2月にパリに着任し、その後約3年半、会頭を勤めたが、ミッテラン訪日に合わせ、4月15日夜8時のTF1のニュースに引っ張り出されたのが、初仕事だった。

当時既に日仏の経済関係はギクシャクしていたが、フランス当局が問題にしていたのは、両国間の貿易不均衡だった。その解決策として、輸出入のカバー率を改善するために、対日輸出を増加させ、対日輸入を抑制しようとしていた。元々ミッテラン政権には数多くの知日派が登用されていたし、ミッテラン訪日もあり、両国関係はやがて好転すると期待していたが、ある日突然、頭から冷水を浴びせられたような措置が発表された。その頃、世界市場を席捲していた日本製ビデオの輸入通関をポワチエの山中に移すというのだ。

この信じられない嫌がらせ措置の撤廃に向けて、我が会議所も立ち上がったものの有効な手段は見つからず、右往左往する毎日だったが、ある会員企業の仏人顧 問のアドバイスもあり、モーロワ首相以下全閣僚に即時撤廃を訴える書信を発送した。殆どの大臣から返事が来たが、日頃“日本人は働きすぎ”などと厳しい対日批判を繰り返していたクレッソン貿易大臣は、ポワチエ通関は自分ではなく、ファビウス予算大臣の所管だと書いてきた。

大使館やジェトロの外交折衝のお陰で、この措置は一年足らずで廃止されたと記憶しているが、忘れられないのは、日立家電フランス社が、“我々はサラセンで はない”とエスプリとインパクトのある意見広告を全国紙に掲載したこととファビウス大臣が我々の招待に応じて我が会議所のランチオンに出席されたことであ る。当日、パレデコングレ内の会場にはフランス人も多数詰めかけ、フランスらしい活発な質疑応答も交え、大臣はフランスの主張を堂々と開陳された。

これをきっかけとするように、貿易摩擦緩和のため、対仏直接投資を望む声が急速に高まり、フランス側の要請に応え、大使館やジェトロに協力して官民合同の日仏産業協力委員会を立ち上げた。 直接投資ではDATARとの協力関係を深め、期せずしてソニー、キャノン、東レなどの大型案件が実現することになった。またアフリカ、中近東を視野に入れた第三国協力に関しては、種々のケースを想定した契約書のモデルつくりに専念した。

私事に亘り恐縮だが、92年には、私は仏銀東京支店に転職し、在日フランス商工会議所の理事に就任していた。欧州統合が一段と進んだこの年、フランス政府はこれまでの対日政策を一変させて、”Le Japon, C’est possible! “と云う対日キャンペーンを開始した。このキャンペーンの受け皿的組織として、在日フランス商工会議所の肝いりで、駐仏経験のある日本人を中心とした日仏経済交流会(通称パリクラブ)を設立することになった。



 
歴代会頭一覧

三宅 浩之 中島 格志 鶴岡 正三
河原畑 敏幸 石塚 徹 小田 義明
後藤 豊 片川 喜代治 北原 隆
阿波村 稔 中川 正輝 大山 昇
吉田 哲史 猪瀬 威雄
左舘 晃 清水 信行 稲森 一彦
白石 義治 北野 健 佐藤 幸彦
萩原 薫 佐藤 洋夫 渡辺 昌俊
山田 史朗 小暮 治 山田 信彦
舟木 凌 江部 敬三郎 広田 弘雄

 

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