在仏日本商工会議所が設立50周年を迎えるとのお報せを戴き、改めて往事を振り返り一入感深いものを覚えて居ります。私のフランスとの係わりは1962年に始まり1987年に最後の別れを告げるまで断続して3回、通算11年に亘りました。
それは、日本の高度経済成長が始まり国際化の波が漸く高まろうとする60年代初めから、70年代を経て80年代後半のバブル崩壊寸前の時期迄です。文字通り日本経済右肩上がりの時代で、私共企業に身を置く者にとっての最大の関心事は、如何にして日本特に日本企業のプレゼンスを世界的に高めるかという事であり、フランスに係わる者としては当然ながら日仏経済交流の促進強化に注力するという事でした。
しかしフランスは60年代は兎も角、70年代に入るとそれまでの経済成長に翳りが見え始め、73年の第一次オイル・ショックもあってインフレと高失業問題に悩むようになりました。経済の緊縮政策がとられる中、81年には社会党のミッテラン政権が誕生し、主要企業の国有化が行われました。こうしたフランス側の苦境もあって急膨張する日本経済への警戒心は強く、一部では声高に「黄禍論」が叫ばれました。仏当局は日本の得意とする家電製品の過度の流入を阻止すべく、一部製品(ビデオデッキ等)の輸入通関事務を全てポワチエに集中しました。8世紀にイスラム勢力の西進をフランク王国がポワチエで防いだ故事になぞらえ、「ポワチエ戦争の再現」と喧伝されたものです(因みに日本はGATTに提訴)。私の2度目の滞仏は丁度この厳しい時期に当たっており、対仏進出を図る日本企業をサポートすべく、守りの堅い仏当局と色々の局面で接触し苦労した事が懐かしく想い起こされます。

そして3度目の滞在が85年から87年の約2年間で、この時在仏日本商工会議所の会頭職を勤めました。フランスは大統領ミッテランのもとシラクが首相職に就く第一次の保革共存がスタートした時です。成長率1%台の低成長が続き雇用の回復も無い停滞する経済情勢を打破すべく、シラクは一部国有企業の民営化を進め市場開放へ舵を切り始めました。一方日本も85年のプラザ合意による円高効果で、海外旅行や企業の海外移転が急速に盛り上がりを見せ始め、フランスでも漸くに日本メーカーの本格的な工場開設が見られるようになった時期でした。当時の通産省主導による対仏投資ミッションがフランスの各地を歴訪し、私共在仏商工会議所はこのミッションのメンバー各位に対仏直接投資のメリットを強く訴えたものでした。こうしたこともあり、この時期日仏経済関係は以前のとげとげしさが薄れ随分と風通しが良くなったなと強く感じたことを今尚鮮明に記憶しております。
会員企業の増大に伴い、会議所自身もワープロ導入や事務所移転など内部の体制整備が必要となりました。更に在留邦人の増加に伴い、手狭となったトロカデロ日本人学校の移転・増設問題も喫緊の課題で、会議所の理事会は移転先や関連費用の負担問題等をめぐり何回となく協議を重ねたものでした。

昨今はオランド大統領の訪日もあり、日仏経済関係は一段の発展深化が期待されます。新フロントのアフリカも視野に入れますと在仏商工会議所の活躍範囲は広大です。新たな50年の歴史が一段と輝かしいものとなることを心から祈念しつつ筆を擱かせて戴きます。

 


歴代会頭一覧


三宅 浩之 中島 格志 鶴岡 正三
河原畑 敏幸 石塚 徹 小田 義明
後藤 豊 片川 喜代治 北原 隆
阿波村 稔 中川 正輝 大山 昇
吉田 哲史 中川 正輝 猪瀬 威雄
左舘 晃 清水 信行 稲森 一彦
白石 義治 北野 健 佐藤 幸彦
萩原 薫 佐藤 洋夫 渡辺 昌俊
山田 史朗 小暮 治 山田 信彦
舟木 凌 江部 敬三郎 広田 弘雄
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